直接的なネタバレはありませんが、時間軸として13章直前頃のお話になります。少しでもネタバレを避けたい方は13章読了後にお読みください。
どこか遠くの方で、救急車が走っている。かすかなサイレンの音が窓ガラス越しにぼやけて聞こえた。
静かな夜の中、電話の向こうにいる彼女にもう一度謝罪をする。
『じゃあ、やっぱり今日は無理そう?』
気落ちしているのだろう、しょげているのが電話越しでも伝わってくる。
「うん、今夜は家にも帰れなさそうだ。せっかく誘ってくれたのにごめん。今度、埋め合わせをさせてくれるかな」
『ううん、いいの。だいたいシモンは元から無理って言ってたもんね。少しでもチャンスがあれば…って今日まで粘っちゃった私が悪いんだ』
健気な声を聴きながら、暗澹とした気持ちでパソコンのモニターを眺める。
誕生日の予定を聞かれたのは素直に嬉しかった。けれど、迷いなく断りを入れていた。迫る日のための準備をしなければならなかったし、何より優しい温かな思い出を作るにはいささか遅すぎると感じていたから。
さっきまで遠くにいたと思った救急車が、けたたましい音を立てて目の前の通りを走っていく。夜に滲む赤いランプを眺め、静かに目を閉じる。
『とーにーかーく!埋め合わせはいらないけど、また改めてお祝いだけは絶対させてね!……それじゃ、切るね。お仕事がんばって!』
相槌を打とうとしたところで、電話の向こうからかすかに聞こえてきたサイレンの音に気づき息を呑んだ。重なるはずのない音が重なったことに動揺し、ほとんど無意識に窓へと駆け寄る。
「待った。…今、きみはどこにいるの?」
『えっ』
開け放った窓から夜の冷たい秋風が入り込み、部屋を静かに満たす。そして予想通り、眼下には研究所の入り口で所在なさげにたたずむ彼女の姿があった。
こちらに気づいたのだろう、顔を上げた彼女と視線がぶつかる。いたずらが見つかった子どものようにへらりと笑みを浮かべている。
「……ようこそ、シモン生命学研究所へ」
「こ、こんばんは〜……」
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来客用のテーブルの上には彼女の持ってきたケーキが二つ。ティーカップに注いだ飴色の紅茶をそこに並べて置く。ふわりと白い湯気が立つ。
ソファに座った彼女は固い表情のまま両手を膝の上で握りしめ、アリガトウ、と小さく呟いた。
「本当に、押しかけちゃってごめんなさい!」
「それは構わないけれど。こんなに夜遅くに一人で出歩いては危ないよ?」
「その、もしシモンの仕事が終わった時に近くにいればすぐに会えるかなー、なんて。……待ち伏せみたいなことしてごめん」
顔の前で両手を合わせて謝る彼女がいじらしくて、笑ってそれを制す。
「今日にこだわる必要なんてないのに」
隣に腰を下ろせば、それだけで幾分ほっとした顔を見せる。本当にころころ表情が変わるし、すぐに気持ちが顔に出る。わかりやすい子だ。
「こだわる!だって年に一度の誕生日だよ?」
「…本当に、そんなに特別なもの?」
「え?」
とっくに聞こえなくなったはずの救急車のサイレンがまだ耳の奥で鳴り響いていて、暗い気持ちが蘇る。
「気持ちは嬉しいよ。けど、昨日や明日と比べて、本当に今日だけが特別な日だと思う?他の誰かにとっては、泣きたくなるほど嫌な一日かもしれない」
「そ、れは、でも」
「……そもそも、等しく流れていく時間の流れに人間が勝手に楔を打って暦を作っているだけに過ぎないんだ。生まれた日なんて殊更、深い意味はないと思うけれどね」
「っ、そんなの!……そうかもしれない、けど」
俯く彼女を見て、喋りすぎたな、と苦い後悔が胸を襲ったがもう遅い。水族館での一件を思い出す。最近、色々と緩み出してしまっている自覚はあった。時間の制約が増えて、ままならないことが増えている。
冗談で流してしまおうか、と手を寄せたところで彼女はぱっと顔を上げた。
口を真一文字に引き結び、こちらをまっすぐに見つめている。そのまぶしいほどに強い光を湛えた瞳に、思わず息を飲んだ。
「でも、あなたが生まれたことには意味があるよ。意味がないなんて、絶対に言わせない。……だから、お祝いしたいの。暦の上で貴方が生まれたことを感じられるこの日を」
身体が震える。それをごまかすように、細く頼りない両肩を掴んでそのまま彼女を抱きしめた。小さな背中がひくりと揺れる。
まるで喧嘩を売るように、挑みかかるように。そうやって何度も全身全霊で僕に愛を伝えようとするその姿に、どうしようもない気持ちになる。
「っ、シモン、ちゃんと聞いてよ」
論法だって理論だってめちゃくちゃで。けれど、ひたすらに心をかき乱される。
「…聞いているよ」
きみだけ、きみだけなんだよ。
そっと身体を離し、顔を近づけると彼女の額に自分の額を合わせて囁く。
「ねえ。…キス、してもいいかな?」
「……いつもは聞かないで、いきなりするじゃない」
さっきまでの勢いは急に消え失せて、途端にしおらしくなった彼女の頬がぽわりと赤く染まる。
「どうだったかな」
至近距離で目を合わせて微笑めば、露骨に視線をそらされる。それでも僕の白衣を握ったその手が離れることはなくて、声に出さず静かに笑った。
「…じゃあ、しちゃダメ」
む、と不満げに眉を寄せてそんなことを言ったかと思うと、彼女は僕の頬に手を寄せ、あっさりと唇を奪ってみせた。
「…今のは?」
「私からするのはセーフ。貴方からはダメ」
「…ずいぶん意地悪な子がいるね?」
「シモンにたくさん意地悪なこと言われた気がするから、その仕返し」
頰を気ままに撫でるその手をとり、そっと握り込む。心の優しい彼女の指先は、いつもひやりと冷たい。
「残念だな、今日は誕生日なのに」
「…ずるい…」
「ごめん」
背中を撫でると、彼女はそっと心地よさそうに目を細めた。僕の手の上に自分のもう片方の手を更に重ねる。
キスの許可を得る代わりに首を傾げてみせれば、いいよ、と小さな囁きが返ってくる。
「好きだよ、シモン。……誕生日、おめでとう」
キスの数だけ、傷つけるとわかっている。
愛を囁いた分だけ、泣かせてしまうと知っている。
「……ありがとう、僕の可愛いひと」
けれどこうしてドアを開けて、君を腕の中に閉じ込めて。
今、溢れるほどの多幸感に押しつぶされそうになっている。
部屋に漂うアールグレイの香りの中、きみに何度もキスをした。痛いほどに色鮮やかな思い出を、僕達は静かに増やしていく。