Polyphonic

written by 板録

デート「雨の中」「雪の夜」を前提にした会話が少しだけ出てきます

 秋の雨は冷たい。
 しとしとと降る雨粒に手を伸ばし、その知見を得た。なんて言ったら、彼は笑うかもしれない。
 雨が降った時に感じる独特の匂いをゆっくり吸い込みながら、私はシモンのことを思いだしていた。彼はもう、家に帰っているだろうか。

「はぁ……あと少しで止みそうなんだけどな……」
 会社近くのバス停で雨宿りをしながら、紺色の空を睨みつける。今は深夜十二時。この日の最終便はとっくに行ってしまっていた。タクシーは何故かどこにもいない。
 明日は早朝から大事な撮影があるので、本当はさっさと家に帰って睡眠を取らなきゃいけなかった。だからこんなところでのんびりしている暇はないのだけれど、雨の中を走り抜けるのもためらわれる。睡眠時間を確保できても、風邪をひいてしまったら本末転倒だ。
 だいたい、今日雨が降るなんて予報では言っていなかったはずだ。折り畳み傘を常備していない自分が悪いのに、私は今朝テレビで見た天気予報士に恨みを募らせる。
 すると、私の恨み辛みが届いたのか、糸が切れたようにぷつりと雨が止んだ。
 そしてそれと同時に、見覚えのある人物がこちらに歩いてきていることに気が付いた。

「シモン……?」
「やっぱりね。このあたりにいると思ったんだ」
 シモンはいつもの優しい微笑みを浮かべて、私のところにやってきた。
「もしかして、迎えに来てくれたの?」
「そうだよ。隣に住んでるうっかりさんがまた傘を持って行かなかったんじゃないかと思って、迎えに来たんだ」
 そう言って、シモンはここに来た経緯を話してくれた。彼は一度研究所から家に帰ったのだが、私がまだ帰宅していないことに気づいて、わざわざ迎えに来てくれたらしい。
「ありがとう、シモン」
「お礼はいいよ。雨は僕がここに着く前にあがってしまったから、この傘は必要なかったしね」
 シモンは苦笑しながら、差していた大きな傘を丁寧に閉じる。
「でも、私はあなたと一緒に帰ることが出来るだけで嬉しいから」
「傘は必要なかったけど、僕は必要だったってことかな?」
 私が素直に頷くと、彼はクスッと小さく笑った。
「そんなふうに思ってもらえていたなんてなんて、光栄だな」と言って、彼は空いているほうの手で私の手を握り、歩き出す。
 こうして歩くのが当然とでもいうような自然な動作に驚いて、私は思わず言葉にならない声をあげてしまった。
「ごめん。いきなりで驚かせてしまったかな。濡れた道路は滑りやすいから、手を繋いだほうがいいと思って」
「そ、そっか……」
 シモンの言い分は理解できる。でも、それなら恋人みたいに指を絡める必要はないはずだ。
 何故この繋ぎ方を選んだのか気になるけれど、今指摘したら普通の状態に戻すことになってしまうかもしれない。
 それは……なんかいやだ。
 理屈では説明できない感情に止められて、私は何も言わずにいることにした。

「そこ、段差があるから気をつけて」
「うん」
 段差を乗り越えた後、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩いてくれているシモンを見る。
 このまま額縁に飾っておきたいくらい整っているその横顔を眺めるだけでは、彼の考えを知ることは出来ない。
 直接質問をせずに、シモンの思考を理解することが出来たらいいのに。私は少し彼の近くに寄った。
「どうしたの……? 寒い?」
「ううん、寒いわけじゃないよ。こうして近づいたら、シモンの心の声が聞こえるかなーって思って」
 私があえておどけた声で言うと、シモンは少しだけ口角をあげた。
「いくら近づいても、心の声が聞こえることはないよ?」
「もう、私だってそれくらいは分かってるよ。ただ、そうだったらいいのになと思っただけ」
「……そんな願望を口に出してしまうくらい、きみは僕の心の声を聴きたいんだね」
 私が小さくうなずくと、さっきまで笑っていたシモンの瞳に陰りが見えた。夜空よりも暗い彼の瞳の奥には、何があるのだろうか。

「本当のあなたは、どこにいるの……?」
 心の声を漏らしてしまったのは、私のほうだった。

「ここにいるよ」シモンは立ち止まり、低い声で答える。
 私も歩くのをやめて、彼の顔を見た。うまく感情を読み取ることが出来ない。
 今、目の前にいるのが、本当のシモン……?
 そうなのだろうか。私には分からなかった。
 これ以上聞いても納得のいく答えは得られない気がして、当たり障りのない笑顔を作る。「そっか」
 でも、それでシモンの目をごまかすことは出来なかった。彼は繋いでいた手を放し、私の鼻の頭を指で軽くつつく。
「これは……納得していない、という顔だね」
「そんなことは……」
「いいよ、否定しなくても。……そうだな。もう少し説明する必要があるかもしれない」
 シモンは目を細めて、私の頬を撫でる。私の存在を確かめるようにゆっくりと、優しく……。
 不思議なことに、恋人繋ぎをした時よりドキドキしていた。彼に触れられている場所が熱くなっていくのが、自分でもよく分かる。それに彼も気づいているのだろうと思うと、余計体温が上がってしまった。
 彼は私の頬に手を添えたまま、口を開く。
「番組のプロデューサーとして奮闘しているきみも、乙女チックで可愛いものが好きなきみも、僕に頬を撫でられて顔を赤くしているきみも……どれも本当のきみだろう? それと同じだよ」
 私はシモンの言葉を聞いて、それらを一つ一つ咀嚼、反芻した。
 確かに、彼の言う通りなのかもしれない。人前では取り繕うこともあるけれど、どの私も偽物ではないはずだ。彼が見たことのない面も全部ひっくるめて、私という人間が形作られている。
 そして彼も……私と同じ。
 親切で頼りになる、優しい人。どこか陰があって、瞳の奥を見通せない人。
 きっと全部、シモンの本当なんだ。
 ただこれは、私が求めていた答えではない。シモンは私が本当に知りたいと思っている情報を渡さず、こうやってはぐらかす。いつもそうだ。
 ……でも、それでいいんだ。今はそれでも。
 心の中で折り合いをつけた時、シモンは私の頬に触れていた手を離した。
「どう? 満足のいく答えだったかな」
「うーん、及第点……?」
「驚いたな。僕がC評価を受ける日が来るなんて思っていなかったよ」
 天才科学者らしい言葉を、シモンは大げさに驚いてみせながら言った。
「それだけ私の試験は難しいってことだよ、シモンくん」
 芝居がかった口調で返した後、今度は自分からシモンの手を握った。
 先ほどシモンがやったようにするのは少しハードルが高いから普通の繋ぎ方にしたところ、彼は微かに手を震わせた。今度は本当に驚いたのだろうか。
 彼の反応が少し気になったものの、私は何も言わずに手を引き、家路を歩いた。
 深夜十二時過ぎの道には、私たち以外誰もいない。車すら通らないので、この世界にいるのは私とシモン、二人だけなのではないかと錯覚しそうになる。
 しかしその時、私たちの横を自転車が通り過ぎていった。続けて、酔っぱらったサラリーマンたちの楽しそうな声が飛んでくる。さっきまでのどこか居心地の良さすら感じられるような静寂は、彼らによって一瞬で破られてしまった。
 世界は、私たちを簡単に二人きりにはしてくれないらしい。

 私は冷たい秋風に火照った頬を撫ぜられるのを感じながら、次の話題を探した。
 シモンを困らせる可能性のある話はやめておこう。彼が喜んでくれそうな、明るい話がいい。……ああ、そうだ。
「ねえ、シモン」
「ん?」
 こういう時にシモンが出す、ホットチョコレートのような甘くて優しい声が好きだ。心がじんわりとあたたかくなるのを感じながら、私は再び口を開く。
「あと少しで、あなたの本当の誕生日だね」
 私の言葉を聞いて、シモンは「ああ……」と声を出して苦笑した。
「そういえばそうだった。すっかり忘れていたよ」
「今度こそ、ちゃんと祝わせてね」
「ありがとう、楽しみにしているよ。……きみにまた誕生日を祝ってもらえるなんて、僕は幸せ者だな」
 そう言ったシモンの瞳からは、少し前まで見えていた陰りが消えていた。本当に楽しみにしてくれているようだ。期待に応えられるよう、私は心の中で気合を入れる。
 でもシモンは、私がひそかに気合を入れていることもお見通しなのだろう。今彼が含み笑いをしたのを、私は見逃さなかった。