written by 那智

『シモン、本当にごめんなさい。終わったらすぐ向かうから』
「社長、急いでくださーい!先方がもう着いてます!」
取り急ぎメールを打ったと同時に掛けられた声。慌ててスマホをポケットにしまい走り出した。
今日の夜はゆっくり二人で過ごす約束だった。けど二十時を過ぎた今も私は帰れず、これから急に決まった打ち合わせに出なければならない。
なかなか取り次ぐ事ができなかった相手だけに断ることもできなくて、心で揺れる天秤を打ち消すように頬を一、二度叩いた。
シモンなら分かってくれる。きっと途中で投げ出す私より、最後まで頑張る私を応援してくれるはずだから。
キュッと気を引き締めて、重い会議室のドアを開けた。

何より大切な日にしたいと思ってた。
コツコツと秒針の進む音がやたら大きく聞こえ、つい先方を見る振りをして、その背後に掛けられた時計にばかり目がいってしまう。
会議が始まってまだ三十分。
打ち合わせだしその程度の時間が掛かるのは当たり前で、むしろ思ったより好印象の先方に、スムーズに進んでいるぐらいなのに。
やっぱり好きな人が絡むと人間ダメなのかも知れない。
外交用の笑顔を作りつつ、そっと心の中でそんな事を思っていた。

「では、これで……」
「お忙しい中、ありがとうございました!今後ともよろしくお願いします」
会社のエントランスで深々と頭を下げたのは、結局一時間以上後だった。お疲れ様でしたの声に笑顔で返しつつ、私は急いでポケットのスマホを取り出す。
『大丈夫だよ、気にしないで』予想通りの返信。
どこかホッとしながら皆から離れ、通話ボタンを押した。二、三回のコールの後、優しい声が響く。
「お疲れさま。打ち合わせ終わったの?」
「今終わったよ。シモン、ごめんね。今日は二人で過ごそうって約束してたのに」
「全然、気にしないで。そうメールにも入れたはずだよ?」
「うん、見た。でもね、今日は絶対会いたいの」
「おや、キミが積極的にそんな事言ってくれるなんて嬉しいね。けど、もう遅いから今日は帰って休んだ方がいい」
「……嫌なの。ごめん、今日はシモンの言う事聞けないや。お願い、寝ててもいいから今から行くから」
「寝ててもって……」
まだシモンは何か話していたけど、一秒の時間も惜しくて電話を切った。
だって気づいてしまったんだもの。
大切な日って理由もあるけど、何より声を聞いたらもっと会いたくなったって。
そう伝えたら、彼はどんな顔をするだろう。

──何やら外が騒がしい。
ドタバタ走る音が聞こえたと思ったら、隣の部屋のドアが荒々しく開けられ、静まったと思ったらバタンと閉められて、今度は自分の部屋の鍵がガチャガチャと音を立てる。
一連の犯人は容易に想像でき、その顔すら簡単に脳裏に浮かんで緩む口元を抑えきれない。
何時でもおいでと渡してある鍵。
それでも、彼女は来る前に必ず連絡を入れ、いきなり来たことはなかった。
それがこの慌てよう。
何故彼女が、後少しで終わる今日に拘っているかも僕は十分知っている。
「きゃっ!」
見えない向こうから小さな悲鳴が上がって、さすがに気になって腰を上げた。部屋のドアを開けた先、玄関でしゃがみこみ、えへへと笑う彼女の姿に安堵と共に釣られて笑みが零れる。
「もしかして転んだ?」
「あ、バレちゃった?」
「そんなに慌てるからだよ。大丈夫?」
「うん、私は平気。ただこれが……」手に持った箱は恐らくケーキだろう。見た感じ潰れた形跡は無いものの、転んだ勢いできっと斜めにしたに違いない。
「せっかく作ったのにな……」
しょんぼり肩を落とす彼女をそっと引き寄せ立たせる。
「まず怪我はない?そっちのが大切」
何処から走って来たのだろう。髪は乱れて頬も赤い。小さく息も上がっているようだ。
「私は大丈夫!それよりシモン、約束守れなくてごめんね」
「それはもう何回も聞いたよ?僕はキミの中でそんなに心の狭い男なのかな?」
「そうじゃないけど……でも今日は」「まずこっちへおいで。中でゆっくり話そう」
彼女の冷たい手を引き、温めておいた部屋へ通しソファへ座らせようとするが、チラリと時計を見た彼女はちょっと待っててとキッチンへ向かう。
こうなったら何を言っても聞かないだろう。彼女の事は誰より理解しているつもりだ。
だから、それならば。
「僕に何か手伝う事は?」
キッチンでテキパキと動く彼女に声を掛けた。
「いいの、シモンは向こうでゆっくりしてて」
「それは残念だな。僕としてはキミと少しでも一緒に過ごしたいんだけど?」
「……もう!そんな事言われたら断れないじゃん」
「で、何をすればいい?」
「じゃあ、これを運んでくれる?」
「了解」
先日プレゼントされたシャンパングラスを受け取りながら、盗むようにキスをする。
「っ……シモン!」驚き頬を膨らます彼女に笑いながら、僕はキッチンを逃げるように出た。

「シモン、誕生日おめでとう!!」
日付の変わった二十四時少し過ぎ。
十一月十五日。
飛び切りの笑顔で彼女はそう言い、グラスを合わせた。
「ごめんね。疲れてるのに、僕の為に無理させてしまったね」
「そうじゃないよ」
「ん?」
「シモン、こういう時はありがとうって言って。ごめんでも無理でもない。私はシモンの誕生日をお祝いしたかったし、それを言うなら、むしろ、夜中に押しかけた私のが迷惑掛けちゃってる」
「迷惑だなんて思ってないよ」
「本当?なら、尚更。産まれて来たことに感謝する日だから……ね?」
産まれた事に感謝だなんて、彼女に出逢わなければ到底辿り着かない言葉だろう。
あぁ、やっぱり敵わない。
太陽みたいな彼女に惹かれないなんて無理だ。
「ありがとう」
そう言ってまたキスをすれば、今度は眩しいほどに微笑んだ。

「あ~あ、やっぱり……」
彼女お手製のケーキは盛大に偏ってひしゃげて、さっきの玄関での事件を思い出させる。
「せっかく作ったって言ってたけど、僕の為に作ってくれたの?」
「うん、早起きして作ったの。ここに来る前冷蔵庫から取って来たんだけど…… これじゃ……」
「形はどうであれ、味は変わらないよ」
スプーンで掬って一口。
僕の好みに合わせてか、甘さが控えめの上品なクリームと苺の甘酸っぱさが口に広がる。驚く程美味しい。
「凄く美味しい……」
「本当?」
「本当に。ほら」
「え!?自分で食べられるよ」
「駄目、僕が食べさせたいの。誕生日なんだから言う事聞いて、ね?」
もう一度ケーキを掬って、あーんして?と揶揄うように言えば、顔を真っ赤にさせ諦めた様子で口を開く彼女。
「ん、美味しい!」
「ね?ありがとう、最高の誕生日だよ」こんな風に祝われる事は僕にとって遠い記憶の事で、真っ直ぐな彼女の想いはそこに柔らかに触れて寄り添った。
「手を貸して?」
「え、手?」
「そう」
胸の前にそっと出された両手を握る。暖かいはずの部屋の中で、それはまだ先端が赤くなっていた。
「外、寒かったよね。どこから走って来たの?」
本当はここへ来てすぐ温めてあげたかった。でも、彼女の望みはそれよりも僕だったから。
「タクシー拾ったんだけどね、途中、事故があったみたいで渋滞してたから。シモンは何でもお見通しだね」
参ったな……恥ずかしそうに笑う姿に、どうしようも無く胸が熱くなる。
「お祝いは後でゆっくりでも良かったのに。嬉しいけど、キミが風邪でもひいたら……」
「声をね……」
「ん?」
「シモンの声を聞いたら我慢できなかったの。会いたくて、どうしようもなくなっちゃって。だから、誕生日もあったけど、全部引っ括めて会いたかっ……」
どこまで無邪気に煽ってくれるのだろう。
そんな事言われたら我慢できなくなるのはこっちの方だと、堪らず奪った唇に、そっとでも確かめるように背中に腕が回された。
負けずにきつく抱きしめる。
こんな大切なプレゼントを僕は一生手放さない。そう心に誓いながら。

この後シモンが「一緒に住もう?」と言ったはずです(願望)