アルバムの続きの日々を

written by とわ

本編終了後、色々な事情が落ち着いてから数ヶ月というif時系列です。シモンのいくつかのデートについて、ネタバレにならない程度の描写があります。

パンパンッ、パンッ!

立て続けに軽快な弾ける音がして、ひらひらと散る紙吹雪が視界に飛び込んでくる。ドアノブに手をかけたまま面食らって固まる僕を、見慣れた顔ぶれの笑顔が出迎えた。

「シモン教授、お誕生日おめでとうございまーす!!」

上手く開かなかったらしいクラッカーが遅れてパンッと鳴って、笑い声がおきる。
そういえばすっかり忘れていた。肩についた色紙や紙テープをそっと払いながら、大げさにも壁にかけられている垂れ幕に書かれたハッピーバースデーの文字を眺める。どうやら今日は僕の誕生日らしい。
どこから聞きつけたのだろう。そういえば以前、誰だったかに聞かれて教えたような気もする。
いつも最前列で講義を受けているグループの勝気な目をした女生徒が、マイクを持つ真似をしてずいと身を乗り出してきた。

「シモン教授、今の心境をひと言お願いします!」

反応に困る、というのが正直な感想だ。
誕生日には戸籍上の年齢が一つ増える区切りだという以外、特にこれといった感慨も価値も感じない。
…なんてことを馬鹿正直に言うのは「おかしな奴」のすることだと、ちゃんと分かっている。
こういう時、好意はそのまま好意として受け取るべきだろう。

「ありがとう。まさか祝ってくれるとは思わなかったから驚いたよ」

期待に満ちたまなざしで僕が話すのを待っていた学生達は、「サプライズ大成功!」だと抱き合って喜んだ。

人生の大半を費やしてきた壮大な舞台が幕を下ろして早数か月。
それは終わってしまえば、まるで長い夢でも見ていたのかとあまりのあっけなさに拍子抜けしてしまうほど、以前と変わらない平穏な日常を過ごしていた。
隠し事をする必要もなくなって、別にいいかと正式な誕生日を教えてしまうくらいには、だ。
講義を終えて廊下に出ると、すれ違いざま生徒達から「おめでとう」の言葉をもらう。人のうわさ話が広がる速さとは恐ろしいもので、客員教授用にわり当てられた部屋に戻ったころには、断る隙もなく押し付けられたプレゼントで両手が塞がっていた。
見かねた同僚の教授から紙袋をもらい、それを抱えて研究所へと移動する。
今日のスケジュールは午前は大学で講義、午後は研究所で長期実験の続きと来月の学会に向けた論文作成。
当然のことだが、誕生日だからといって仕事内容はいつも通り変わりない。
……迂闊に誕生日を教えてしまったのは失敗だったかもしれないな。祝われるたび困惑ばかりが積もっていく自分自身に、何とも言えない感情を持て余していた。
日常が落ち着いたところで、ずれた感覚まではどうしようもないのだろう。
研究所でも祝いの言葉と、たまにそこへ加えてプレゼントをもらい、それに曖昧に答えながら、つつがなく11月15日という一日を過ごした。

耳につく着信音で、作業に没頭していた意識が絶たれる。
いつの間にか外ではすっかり日が沈み、壁掛け時計の短針はとっくに10時を超えていた。
集中力が途切れた途端、ずっと同じ姿勢でいたためか体の節々が不調を訴え出した。目の筋肉が強張っていて軽く頭が痛む。椅子にもたれたままぐっと伸びをすると、ミシミシと背骨が軋む音がした。
今の時期は特に急ぎの実験もないので、静まり返った研究所にはおそらく僕しか職員は残っていないはずだ。
きりがいいし、そろそろ今日はお終いにしよう。
眉間を揉みほぐしながら、未だ鳴り続けるコール音に緩慢な動きで手を伸ばす。
その画面に表示された名前を見て、すっと気怠い疲れが意識の外に追い出されていくのを感じた。

「どうしたの、こんな夜遅くに」
『良かった、出てくれて…。こんな時間にごめんね。今からちょっと会えないかな?』

申し訳なさそうな控えめの声。その向こうでは通り過ぎていく車のエンジン音が聞こえる。どうやら彼女は外にいるらしい。
ちょうど切りあげようとしていたところだし、彼女からの誘いを断る理由なんてない。
「構わないよ」と伝えると、受話器の向こうでホッと安堵するのが聞こえた。
散らばっていた資料を束ねて手早く片付けを進めながら、すでに職場を出てこちらに向かっているという彼女に、近くの大通りで待つよう伝える。
大学近辺は夜になるとほとんど人通りがない。一人歩きするには危険だ。
すぐ行くからと伝えて電話を切り、足早に研究所を後にした。

最近の彼女は多忙を極めていた。
長く続いた騒動での遅れを取り戻そうと必死に動いていた矢先、さっそく新規の大型プロジェクトを契約出来たらしい。
わざわざ研究所に来て報告してくれた姿は本当に嬉しそうで、こちらまで嬉しくなって「応援するよ」と言ったのが、日常が戻ってすぐの数か月前のこと。
そこまでは良かった。
それ以来ずっと、彼女とまともに話せていなかった。
電話をかけても繋がらなかったり、取りつけた約束は彼女の仕事のトラブルのため延期に次ぐ延期。そのたびに心底申し訳なさそうに謝る彼女が気の毒で、二度目の延期が決まった時は、「君の都合の良い時に」とだけ伝えて日付を決めなかった。その「都合の良い日」は今のところ目処すら立っていない。
番組の打ち合わせでもあれ以来ずっと、彼女以外の別のスタッフが来ている。
彼女の有限で貴重な時間は今、そのほとんどが仕事に捧げられていた。そこに僕がつけ入るような隙間はない。
せっかく落ち着いて話せるようになったのに。…なんて拗ねてみたところで仕方ないのは分かっている。分別のない子供ではあるまいし。
そう言い聞かせていながらも、遠目に走り回っている彼女を見ながら、何とも言えない焦りのような、置いて行かれる寂寥感のようなものを感じていた。

灰色の街並みに突然ぽつんと色を見つけて、思わず歩調を緩める。
一人たたずむ彼女の周りだけ、すでに日が沈んでから時間が経つというにも関わらず、遠目でも一目で分かるほど鮮やかだった。色がある景色を見るのも久しぶりだ。
どう話しかけたらいいだろうかと、らしくもなく緊張してしまってさらに歩みが遅くなる。
そんな僕とは裏腹に、くたびれた顔で壁にもたれかかっていた彼女は、僕の姿を見た途端パッと笑みを浮かべて駆け寄ってきた。

「お待たせ」
「ううん。ごめんね、急に呼び出したりして」
「謝らないで。君に必要とされるなら、いつだって飛んでいくよ。仕事の方はどう?順調?」
「まあ何とか、それなりにって感じ。でもちょっと手ごたえを感じて来てはいる、かな?」

照れたようにはにかみながら、少し誇らしげにそういう彼女からは、自信と達成感がうかがえた。
再会した当初は何かと不安そうに頼ってくれていたのが、今となっては遥か前の記憶のような気がする。
成長は喜ばしい。けれども、ほんの少しだけ寂しい。
どんどん彼女が僕の手から離れていってしまうようで。
にこにこと笑う彼女の姿に、何だか少しだけ意地悪をしたくなった。

「シモン、今日は何の日だと思う?」
「そうだな、第1回先進国首脳国会議が行われた日かな。ジュネーヴ宣言って知ってる?ブラジル革命が起きたのも今日だね」
「…ごめん、ちょっと今頭が疲れてて、聞き慣れない単語が入ってこないの」
「冗談だよ。僕の誕生日ってことだろう?」

こめかみを押さえて渋い顔をする彼女に笑いながら、求めているであろう答えを投げる。
とたんに彼女の瞳が輝いて、かばんをゴソゴソと探り出した。
現金な話だが、こうして彼女が疲れを押してまで僕のために会いに来てくれるなら、誕生日というのも悪くないかもしれない。
不意に彼女の顔つきが変わる。大きめの鞄を体で支えて、両手をさし込んでガサガサと鞄をかき回し始めた。
その鬼気迫る剣幕に、どのタイミングで「鞄を持つよ」と声をかけるか迷っているうちに、ぴたりと彼女の動きが止まる。
力なく体を起こし、こちらを向いた彼女はこの世の終わりのような顔をしていた。

「会社に置いてきちゃった…!」
「っ、ふふ、…ははは!」
「ごめんねシモン、私…こんなはずじゃ…」
「はは、…っふ、……いいよ、気にしないで。その気持ちだけでもう十分嬉しいよ」

こういうところは変わらない。
僕が知っている、出会った当初のままの彼女だ。
ホッとして緊張がほどけると同時に、笑いが止まらなくなって吹き出してしまう。
呆然とした彼女の視線が僕の手元の紙袋に落ちる。

「それ、誕生日プレゼント?」
「ん?ああそうだよ。大学の生徒達と研究所の職員の人達から。今まで隠してた反動なのかな。言いふらした覚えはないんだけど、結構たくさん貰ってね」
「きっと皆祝いたかったんだよ。シモンは人気者だもんね…。あああ、ほんと私ってば…」
「気にしないでってば。その気持ちだけで十分だよ。僕にとって日付はただの記号にすぎないし、重要なことじゃないから」
「でもシモンの誕生日は今日だけでしょ。それに…、やっぱり何でもない。せっかく時間もらったのにごめんね…」

しゅんと萎れるようにうなだれた彼女に、微笑ましさと慰めてあげたい気持ちで頭へ手が伸びる。
ぽんぽんと撫でると、彼女はなぜかさらにうなだれて、「本当にごめんなさい…」とか細い声で言った。
これはなかなかに参ってるな。プレゼントのことだけじゃなく、仕事や私生活の方でも何かあったのかもしれない。
どんよりと暗いオーラを漂わせる姿に、すっかり緩んだ口元を手で覆って笑いをおさめる。
こういう時の対処法なら得意分野だ。

「それじゃあ、今から君の会社まで取りに行こう。君が何を贈ろうとしてくれたのか、僕としても気になるしね」
「え、でも…」
「僕の誕生日プレゼントなんだから、ちょっとくらい我儘を言ってもいいだろう?君さえイヤじゃなければどうかな?」

遠慮しようとした彼女の声に被せて、あえて強気な言葉を出してみる。
躊躇うように視線を彷徨わせて、口を開いたり閉じたりしていた彼女は、少し間があってから「シモンが迷惑じゃないなら…」とおずおずと首を縦に振った。
君にかけられる「迷惑」とやらを迷惑だと思ったことは一度もないって、もう何百回も言ってるんだけどなぁ。
萎縮させるのは本意でないので、その言葉は声には出さなかった。
待ち合わせを大通りにしたのは好都合だった。駅まで客を送り届けてきた帰りらしいタクシーがすぐに捕まった。
彼女がオフィスの住所を告げると、車はすぐに音もなく走り出した。

「そっちの箱はケーキ?」
「さすがは目敏いね。ご名答。学生達にもらって、研究所の冷蔵庫で冷やしてたんだ。良かったら食べる?」
「そういえばシモン、甘いものは食べないんだったね」

膝の上で箱をそっと覗いた彼女は、「2つもある」と嬉しそうに小さく歓声をあげた。
タクシーの中だからと気を使ったのだろうけれど、その控えめな歓声がまるでおもちゃ箱を開けた子どものようで、自然と表情が緩んだ。機嫌が持ち直してくれたようで良かった。
さっきまでどう話せばいいかと戸惑っていたのが嘘のように、すっかり感情は落ち着いていた。ころころと変わる表情につられてしまうくらいには、肩の力が抜けている。
街灯りが流れていくのを横目に彼女を見つめていると、その声と同じ弾んだ瞳が不意に僕の方を向いた。

「ねえ、シモンさえ良ければなんだけど」

窓ガラスに映る街灯が反射して、彼女の瞳がキラキラと光る。
暗い車内と対照的であまりにも眩いそれは、まるで周りの光が全て彼女の瞳の中に溶け込んでしまったかのようだった。
不要な音も色もない。
暗がりの静けさの中では、彼女だけが全てだった。
この世の何よりも綺麗なものを見つけてしまったような気分だ。
この目を見たが最後、僕は彼女の願う事なら何だって叶えてあげたくなってしまうのだ。

「今からシモンの家でお祝いしない?」

ああ、これは失敗だったかもしれない。

「シモン?」

隣に座った彼女から、ふわりとシャンプーの匂いがする。いつもより艶やかでブローされただけの自然な髪が、なんとも目に毒で仕方ない。

「…相手が誰だろうと、こうして簡単に家について行っちゃダメだよ」
「さすがに私もそこまで無用心じゃないよ。安心して、シモン以外にこんなことしないから!」

へらっとした裏のない笑顔に、そうじゃないだろうと眩暈がした。
…信頼されていると喜べばいいのか、今の僕は異性として彼女の眼中にもないらしいと嘆けばいいのか。
こんな時でさえ、「僕だけ」という言葉に少なからず喜んでしまっている自分に呆れながら、曖昧に笑って誤魔化しつつ、内心ため息をつく。

「プレゼントを渡してそのまま解散というのは少し寂しい。最近ほとんど会えなかったし、少し話さない?」

殺し文句としては百点だった。
ただでさえ彼女の頼みには全て応えたくなる僕が、そんなふうに言われて断れるはずがない。
それがどうしてこんな事態になってしまったのか。話はとても単純だ。あれから彼女の会社に行ってプレゼントを回収して、無事お隣さんに戻ったマンションの玄関に並んで立った時だった。
ふと足を止めた彼女が、閃いたとばかりに言ったのだ。

「いつ眠ってしまってもいいように、お風呂済ませてくるね」

脈絡のないその言葉を理解するために数秒かかり、その内容のおかしさに「…ん?」と思った時には、すでに彼女は扉の向こうに消えていた。
夜も遅いからお開きになったらそのまま眠れるように、というのが彼女の言い分だった。
「これで時間を気にせず一緒に過ごせるね!」と笑う彼女の中で、僕はいったいどれほどの聖人君主になっているのだろう。
いつ寝てしまってもいいようにと言っていたけれど、まさかここで寝るつもりじゃないだろうな。
さすがに僕もそこまで寛容では……。
……そういえば、過去にも何度か前科があったな。途方もない夜が始まるのを覚悟しながら、手触りの良さそうな部屋着姿の彼女を視界から引きはがすように外して、「飲み物を淹れてくるね」と席を立つ。
キッチンカウンターに一人もたれながら、さっきまでとは違う痛みを訴える眉間を抑えた。自然に笑みが消えて、すでに何度目か分からない溜め息がこぼれる。
今までに何度となく、友人というには近すぎるくらいの距離で、こうして無防備な姿を見たことはあった。
お見舞いに行ったことも、来てもらったこともある。無用心にも会社のソファで眠っている姿だって見たことがある。
けれど、「お見舞い」といった名目があったあの時と、「話したいから」という理由だけで家に上がりこむのとでは、全く事情が違ってくる。
彼女のこの鈍さと紙一重な純粋さは、長所であると同時にとても危なっかしい。
一度しっかり言い聞かせなければいけない。
つけ込む隙を見せたら、いつかろくでもない奴に傷つけられてしまいかねないのだから。
…例えば、僕みたいな男に。
苦笑いが出てしまうのはどうしようもない。どの口が言うんだか。
そもそも彼女がこのおかしな距離感に慣れてしまった元凶は僕なのだから、自業自得もいいところである。
タイミングがいいんだか、通路からひょこりと彼女の顔が覗き込んできた。

「ねえシモン、日付が変わっちゃう前にケーキ食べちゃおうよ」
「…そうだね。じゃあお皿をお願いできるかな」

日付けが変わるまで残り30分をきっている。いつも通り終わるはずだった一日が、終わりがけでまさかこんなことになるとは。
何にせよ、ゆっくり話す機会が欲しかったのは僕も同じなのだから、ちょうど良かったのかもしれない。
会った時点で相当疲れているようだったし、しばらくしたら眠ってしまうだろう。そうしたらそっと彼女の部屋に送り届けよう。
……そこまでしてでも一緒に居たいだなんて、本当に救いようがない馬鹿だという自覚はあった。
肝心の僕自身が、彼女の一挙一動でこうも振り回されるこの感覚すら好ましく思っているのだから仕方ない。
この時間帯にコーヒーを淹れるわけにはいかないので、最近気に入っているお茶をあけることにした。
茶器を持って戻ると、お皿にケーキを移し終えた彼女がそわそわ待ち構えた様子で座っていた。
ごく一般的なショートケーキとチョコレートケーキ。どうやら有名なチェーン店のものらしく、味は学生達からのお墨付きだ。
彼女は箱についていた五本入りロウソクの封を開けると、一本だけ僕の方のケーキに立てた。

「ロウソクまで立ててくれるの?ずいぶん本格的だね」
「誕生日だからね!…今、子どもっぽいって思ったでしょ?」
「そんなことないよ。可愛いことをするなぁとは思ったけど」
「…もう、またそういうことを言うんだから…。そうだ、ライター持ってる?」
「マッチならあるよ」
「つけてつけて!」

引き出しを探す僕を横目に、軽い足どりで壁際のスイッチへ向かって行った。
僕が火をつけたのを確認すると、ぱちりと部屋の電気が消える。ぱたぱたこちらに向かって来る足音が聞こえて、すぐ隣でソファに軽い振動が伝わった。
オレンジ色をした頼りないロウソクの火の向こうで、瞳をキラキラさせた彼女が嬉しそうに笑っている。
この調子では、まるで彼女の誕生日みたいだ。

「それでは、シモン教授のために歌いたいと思います」

こほん、と勿体ぶって咳払いして、彼女はゆっくりと歌いだした。

「ハッピーバースデー、トゥユー…」

舌足らずな英語が僕だけのために紡がれる。
楽しげながら、いつもより少し落とされた穏やかなトーンの声。

「ハッピーバースデー、ディア シモン」

目を合わせて、少しの沈黙が落ちる。
心もとない温かな灯りに照らされた彼女が、くすぐったそうに笑う。
この時になってようやく、どうして彼女が「今日」にこだわっていたのかを思い出した。
「毎年シモンの誕生日が来たらお祝いしようね」と、一年と少し前に交わした他愛のない約束を、ちゃんと覚えてくれていたのだ。
彼女と出会ってから何度目か分からない感情に胸が詰まる。

「ハッピーバースデー、トゥユー。……えへへ、お誕生日おめでとう」

歌い終えた彼女の拍手もそこそこに、ロウソクの灯りをふっと吹き消し、立ち上がろうとした彼女を引き止めて暗がりの中壁際まで向かう。
壁についた手は馬鹿みたいに震えていた。口元を抑えて固く目をつぶる。
言い表せないほどの未知の感情が、喉元のこの辺りまでせり上がって来ていた。
蹲ってしまいそうなほど胸を締め付ける何かが、もう誤魔化せないくらいに肥大化した想いが、出口のない体の内側で行き場を失くして、今にも溢れ出そうとしていた。
電気をつけそのまま廊下に出て、扉を閉めその場にしゃがみ込む。
温かさが痛くて泣いてしまいそうだ。
近づけば近づくほど、彼女の優しさが突き刺さって、自分が自分でなくなるような感覚がしていた。
全部が終わって、彼女のいる場所に戻ると決めた時、この感情からも逃げないと決めていた。
それと同時に、これ以上踏み込まないとも決めていた。

「おかえり。どうしたの、大丈夫?」
「何でもないよ。待たせてごめんね、さあ食べようか」

不安げな表情から一転、嬉しそうな彼女の視線はすでにケーキに注がれていて、気付かれないようほっと息をつく。
今のままでいい。
こうして彼女が今日みたいに、来年も、そのまた来年も笑顔で祝ってくれるなら、これ以上何も要らない。
おさまらない感情をごまかすように、ショートケーキをひとくち口に運んだ。砂糖の塊で出来たクリームが溶けていく。
気遣うような目でちらちらと伺っている彼女ににこりと笑うと、安心したように大きな口でぱくりと頬張った。

「無理して食べなくていいよ。残ったら私が食べちゃうから」
「大丈夫、今日は食べられそうだ」
「そう?ならいいんだけど」
「もしかしてこっちも食べたかった?」
「えっ!あ〜…、違うの。ほら、私一応ダイエット中だから…」
「ひと口くらいなら大差ないよ。はい、口を開けて?」
「ちょっとシモン!っていうか大きくない、それ…、っんむ!」
「どう、美味しい?」

唇の端についたクリームを指先で拭ってあげると、顔を赤くした彼女は恨めしげに僕を睨んで「美味しいよ…!」と吠えた。
大丈夫、いつも通りだ。何も問題なく振る舞えている。

「それで、僕はどんなプレゼントをくれるのか、そろそろ教えてもらっても?」

すっかり忘れている様子の彼女に、教えてあげた方がいいかと時計を指してみせる。
ハッとした顔で手にしていたケーキを頬張ると、慌てた様子でお茶を飲んで、紙袋からラッピングされた少し大きめの何かを取り出した。

「はい、どうぞ」
「ありがとう。開けてみても?」
「もちろん。気に入ってくれると嬉しいんだけど」

そっとラッピングを解いていくと、現れたのは一冊のアルバムだった。
何となしに最初のページを開いてみて、手が止まる。
緊張でこわばった顔の彼女と、よそよそしい笑顔を浮かべた僕が肩を並べて立っていた。

「覚えてる?『奇跡発見!』の最終回を撮る前に、あまりにも緊張してる私を見かねて、最終回の記念にってアンナさんが撮ってくれたの」
「…ああ、覚えてるよ」
「それでこっちは、」

スタッフ達から渡された花束を抱え、涙ぐんで嬉しそうに笑っている彼女と、その隣で少し困ったような顔をしている僕の写真。さっきより距離は縮まっているものの、やはりどこかぎこちない。
ページをめくる。巨大な水槽を背に立つ彼女。雪が積もった窓辺の小さな雪だるま。これはカナダに行ったときの紅葉の朱色と自転車。すでにアルバムは完成しているらしかった。テーマパークでの2ショット、周囲の桃の花をそっちのけに顔を見合わせて笑う二人、波打ち際でお揃いのサングラスをかけて逆光に邪魔されながら何度も撮り直した渾身の一枚。
僕が撮った覚えのある写真と、初めて見る写真とが混ざってできたそのアルバムは、一枚一枚がまるで昨日のことのように鮮明に思い出せる鮮やかな記憶で溢れていた。
少し緊張した面持ちで、彼女が僕の名前を呼ぶ。

「これからもこうして一緒に、あなたとたくさん思い出を作っていきたいの。だから私のそばにいて欲しい。来年も再来年も、毎年あなたの誕生日を祝わせて欲しいの」
「…もちろんだよ」

かすれた声でそう返すので精一杯だった。
これ以上何を望めばいいのだろう。最後まで見終えたアルバムを閉じ、その表紙なぞりながらゆっくりと感情をなだめて、彼女へと向き直る。
そんな彼女はというと、固唾をのんだような面持ちで、じっとこちらを見つめていた。

「…それだけ?」
「?」

お礼が足りなかったということだろうか。
「本当に嬉しいよ。ありがとう、大切にするね」
そうつけ足すと、彼女はどこかもどかしそうに「そうじゃなくて」と不満げな顔をして見上げてきた。
かと思ったらすぐに視線が外れて、何故か困ったように左右に揺れる。
前髪を弄るのは、恥ずかしがっている時の彼女の癖だ。
どうしたのだろうかとじっと見つめていると、なぜか泣きそうな困りきった表情をした彼女の顔は、少しずつ下がっていって、とうとう僕からはつむじしか見えなくなった。
かける言葉を間違えてしまったのだろうか。
何と声をかけたらいいのか迷っているうちに、ゆっくりと時間だけが過ぎていく。
12の文字盤に重なりかけた針を見て、ふと思い出す。
そうだ、まだ誕生日を祝ってくれたお礼を伝えていない。
ぎこちなく口を開きかけたその時、不意にぎゅっと手を握られて、思わずうかがうように彼女の顔を覗き込む。
頑なにうつむいたまま、一心に僕の手を見つめる彼女の顔は、耳から首まで真っ赤だった。
いつだったか、お見舞いに行った時に彼女にむいてあげた林檎も、確かこれくらい真っ赤だった。とはいえ僕にとって、面会時に彼女の姿を見るまで、本当にそれが「赤色」なのかなど知る由もなかったけれど。
その赤色が、伝染するように自分の顔に移ってきているのが分かる。
恐る恐るそっと握り返すと、彼女の薄い手のひらがさらにぎゅっと握り返してきた。
期待するな。そんなわけがない。
お願いだから、踏み越えないでくれ。

指先から移ってきた彼女の体温が、僕自身でさえ目を背けていた本音まで引きずり出していく。
凍っていた心臓が雪解けを迎えたかのように早鐘を打ち出していた。

もうすぐ日付けが変わる。
秒針が最後の一周を終えて、日付けを飛び越えてしまうよりも、彼女の言葉の方が早かった。
それは今まで何十年と意味のないものだった僕の誕生日に、価値を与えてしまうまでのタイムリミットだった。
ぬるま湯のようなこの関係がいつまでも続けばいいと思っていた。
物語の終わりは幸せな結末だけではない。ならば見なければいいと、必死になって線を引いていたのに。それなのに。

「あのね、シモン!」

意を決したようにぱっと顔をあげて、真っ直ぐに僕を見据えた彼女から目が離せなかった。

勝手に終わらせたはずの物語が、再び幕を上げようとしている。
たくさん交わした口約束の続きを、他でもない彼女が望んでくれるのなら。
春を告げる桃の花も、海の青さも、紅葉で燃える山も、真っ白な雪景色も、きっと今より一層鮮やかに見えるのだろう。

いつだって彼女は、いとも容易く僕の世界を塗り変えてしまうのだ。